日本共産党は、中立の思想は存在しないと主張

 

 

 

日本共産党は、中立の思想は存在しないという立場である。どのような思想、考え方、意識も、階級性を帯びているという考え方である。中立の思想は存在し得ないという立場である。

 

 

 

たとえば、月刊学習2011年12月号、「古典から学ぶ「世界の見方」 「弁証法」を中心に 第6回 デューリング批判から「弁証法」を学ぶ(その2)」学習・教育局次長 長久理嗣 82ページ以下には、次のようにあります。

 

 

 

エンゲルスは、当時のヨーロッパの現実から出発して、封建的道徳、ブルジョア的道徳、プロレタリア的道徳とさまざまな道徳観が実際にあること、「絶対的な妥当性」という意味ではどれ一つそういうものはないと指摘します。そして、反対に、「これまでのすべての道徳理論は、結局のところ、そのときどきの社会の経済的状況の所産である」(136ページ)と主張します。

 

 

 

たとえばエンゲルスは、「ものを盗んではならない」という道徳をあげます。これは私的所有が発生して以来、私的所有関係という経済的条件を基盤とするすべての社会に共通する道徳です。では「永遠」なのかというと、そうは言えません。盗みをする動機がなくなるほど物質的に豊かな社会になったら、そういう社会で「ものを盗んではならない」を「永遠の真理」として宣言する人がいたら、笑いものになるだろうと、エンゲルスは論じています。

 

 

 

日本共産党は階級政党

 

 

 

日本共産党は、特定の階級の政党で、労働者階級の執権、労働者階級による政治を目指しています。労働者階級の周囲に、協力・共同できる中小企業、商人、農民、女性、青年などを集めて、日本の人口の数パーセントである資本家、地主などをのぞいた政権の樹立を目指しています。資本家や地主などは日本の人口の数パーセントに過ぎないので、日本共産党は自分たちを国民の政党、みんなの代表と名のっているだけの話しです。日本共産党は日本の階級構成を分析し、日本共産党出版の雑誌である『月刊学習』で公表しています。日本の政党の中で、階級構成の分析をするのは、日本共産党だけです。

 

 

 

さらに、日本共産党や共産主義者は、労働者階級を、未来の社会の担い手とし、争いや暴力、人権弾圧や犯罪のない社会を実現できるとしています。日本共産党は、労働者階級を、平和勢力であると主張しています。共産主義の創始者である、マルクスやエンゲルスは、共産主義社会では、不倫や精神病、窃盗などの犯罪は存在し得ないとまで主張していました。それらは、『ドイツ・イデオロギー』などのマルクスやエンゲルスの著作に書かれています。日本共産党や左翼関係の書物でも、たびたび、紹介されています。

 

 

 

職場の同僚についても、「仲間」であることをことさら強調し、「連帯」を強調します。まるで、職場の同僚は、同じ政治団体のメンバーであり、共通の政治目標を持つ同志であるかのようです。

 

 

 

日本共産党は労働者の党である。日本共産党への新入党者にもそのように教えているし、教科書にもそうある。

 

 

 

『みんなで学ぶ党規約 「支部が主役」で強く大きな党に』

 

2015年2月21日 日本共産党中央委員会出版局

 

 

 

21ページより抜粋

 

 

 

(日本共産党規約の第二条の)最初の段落は、「日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」と性格づけています。・・・。「労働者階級の党」という規定は、労働者だけで構成される政党ということではなく、労働者階級がになっている「歴史的使命」-第二条の第二段落に「終局の目標」として、その内容を規定している社会主義・共産主義の社会-の実現をめざす政党という意味です。この事業をすすめる主力が労働者階級であるということは、科学的社会主義の理論の核心の一つです。同時に、この歴史的事業は労働者階級だけでなく、資本主義の害悪に苦しむ国民大多数の利益に合致する国民的な性格をもっていますから、この事業には、労働者階級だけでなく、さまざまな階級に所属する人たちが参加できるし、実際に参加してきています。

 

 

 

しかし、労働者の利益を実現することは、国民圧倒的多数の利益を実現することと一致するという強弁の下、みんなの党をなのっている。このようなことばの遊びを許すわけにはいかない。日本共産党は労働者の党であり、国民の党ではない。しかも、、資本家、地主、日本の現在のリーダーなど、努力した勉強家、才能ある人たちを除外している。

 

 

 

 

 

政治団体の中で、国民の階級(職業)分析を行うのは、日本共産党だけである。しかも、軍人、警官、保安サービス員の項目を作成する。これは、軍人や警察、警備員を、権力・支配者の暴力弾圧装置として敵視しているからである。以下は、日本共産党が国勢調査のたびに発表している資料である。

 

 

 

図表

 

 

 

革命家ゲバラの著作に見る「労働」全体主義

 

 

 

共産主義思想は、「労働」全体主義である。「働かないこと」、「欠勤」は悪である。また、指導者は、伝説の労働者、超人的に仕事ができる人間として神格化される。永久に「理想」を追い求めたとして、若者の間で神格化されているゲバラの著作から、そのことを見てみたい。以下は、私が、昔書いた、論文である。労働全体主義、その他、共産主義の本質がわかる。

 

 

 

今年(2008年)は、キューバの独裁者カストロの盟友であったゲバラの死後、40周年にあたる。世界各地で、映画が作成されたり、お祭りが開催されたりするらしい。内容は、ゲバラを「真の革命戦士」として称賛するものらしい。実際、今でもゲバラをかっこいいと誤解する青年が絶えない。こともろうに、保守陣営の中にもゲバラを称賛する者もいる。

 

 

 

しかし、ゲバラはキューバを強制収容所列島化した張本人。世界で一番長く牢屋に入っている政治犯は、キューバにいる。世界人権宣言を所持していただけで逮捕される国キューバ。そのキューバを作ったのがゲバラだ。ゲバラを許すな。

 

 

 

今回私は、ゲバラ選集4巻(青木書店昭和44年)とゲバラ日記(朝日新聞外報部昭和43年)を軽く読んだ。間違った思想家であるゲバラの真実を語りたい。

 

 

 

そもそも若者がゲバラをかっこいいと勘違いする最大の理由が、カストロはキューバの政治家となったが、ゲバラは、キューバの革命だけでは満足せずに、世界革命を求めて南アメリカに潜入し、ゲリラ活動を続けたということである。このように、「革命」にすべてをささげるのが、若者にはかっこよく見えるらしい。

 

 

 

しかし、ゲバラの年譜を見ると、そのようなゲバラの生き方は正確ではない。ゲバラは、キューバ「革命」が成功した時、政府の首脳となった。初代の工業相などを歴任し、キューバ政府を代表して、国連や世界中で演説している。そのようにして1959年から1965年半ばまですごしたが、カストロ首相と別れて、ボリビアでゲリラ活動を開始したのである。そして、1967年、ボリビア革命に失敗し、捕えられ、処刑される。キューバ革命が成功した後、さらなる革命を求めて他国にわたったなどというかっこいい話しではなく、キューバで六年ほど政府の首脳をしている。

 

 

 

しかも、朝日新聞のゲバラ日記によると、ゲバラはカストロと路線闘争で決定的な衝突を起こし、キューバを離れざるを得なくなったということである。キューバの革命家たちと対立し、アルジェからハバナに戻ったゲバラは、カストロと二日間ぶっとおしで話し合ったという。彼の主張はキューバを益するところはないと悟ったゲバラは、キューバを離れざるを得なかったのである。カストロへの別れの手紙は、読む人をほろりとさせるというが、路線闘争の違いによる別離はふれられておらず、意味のない手紙である。

 

 

 

 

 

ゲバラの書いたものからは、あまり思想的なものは感じられない。ほとんどの文章が、「祖国か死か!われわれは勝利する。」というかけ声で終わる勇ましいだけのものである。「革命ゲリラ」は最高であるなどとあちらこちらに書いてあるが、どうしてかっこいいか何の説明もない、空虚なスローガンで満ち溢れている。

 

 

 

それでもところどころに断片的なマルクス主義のイデオロギー的文章がある。拾ってみる。

 

 

 

「ゲリラ兵士は、すぐれた解放の戦士である。つまり、人民の選良であり、解放闘争においてみずから戦う前衛である。」第一巻34ページ

 

 

 

「戦争の高まり、人間の友愛が最高度に高められる瞬間を利用して、住民の気持ちの許すかぎり、あらゆるかたちの共同作業を奨励すべきである。」第一巻118ページ

 

 

 

「いまや、キューバ人民には一つの仕事が課せられている。前進をつづけ、それらの矛盾をなくし、新しい社会関係をつくってゆき、みんなを働いてパンを稼ぐ人間に改造することである。労働と汗でそうしようではないか。技術に負けずに機会を駆使し、文化を享受し、大衆の教育者に変わったスポーツを楽しみながら、できるだけ爽快に、できるだけ人間らしく、できるだけおもしろく働けるように努力しようではないか。この世を全員が夢見た、真の地上の楽園にしようではないか。世界がその楽園になるためには、もちろん世界のあらゆるとことで搾取者をなくすことが必要だ。彼らは侵略者なのだ。」第一巻344ページ

 

 

 

「社会主義社会は絶対に民主主義的であり、決定からしても民主的である。というのは、それは人民の必要と願望とに基礎をおき、人民がすべての決定に、完全な参与権を持っている社会である。」第二巻51ページ

 

 

 

「欠勤を防ぐ闘争は、完全に教育の分野である。欠勤は国民的に重大な欠陥であり、高給が支払われる職種にとってはいっそう悪い結果になる。現在必要とされている一ヶ月の平均的労働時間だけ働かずに生活することが、社会的に見ていかに悪徳であるかを大衆が理解するならば・・・」第二巻278ページ

 

 

 

「われわれがたたかうべきもう一つの相手は、欠勤である。欠勤はまだはびこっている。それは、たぶん、つかうものがないのにお金がありすぎるから起こることであり、現在起こっている。しかし、社会的性格をもつ手段や、集団的手段や、大衆との討論によって、また、それがひきおこす害毒を論理的に説明することによって、欠勤ともたたかうことができる。同志諸君、最終的には、これらの方法がうまくいかないなら、われわれは強制的な手段を使う時期にきていると思う。」第二巻301ページ

 

 

 

「職場で他の同志からものを盗むような労働者は、労働者階級の真の一員ではない。それと同じように、われわれが裁き、処罰しなければならない、一連の社会的性格をもった犯罪がある。危険がせまったときに塹壕から逃げる。すなわち機械から逃げる・・・。」第二巻302ページ

 

 

 

「諸君はたいてい、サトウキビがどんなものであるか知っているし、10時間も同一速度で刈り取れないこともご存じだ。カストロ同志は、仕事についていた10時間中、直接刈り取りの手を休めたのは八分だけだった。しかも、その八分は刈り取る場所を変えるのに費やしたものである。・・・カストロ同志は、トラクターに乗っても、どんな運転手よりも倍多い仕事をするのがわかる。・・・彼にどうしてそんなことができるのか?カストロ同志は労働に心から情熱をささげているのだ!」第三巻70ページ

 

 

 

「社会民主党は、戦争を人類の紛争の解決の残忍な方法としてあくまで非難するが、社会が階級にわかれ、人間による人間の搾取が存在するかぎり、戦争は不可欠であることを知っている。(と、レーニンは述べた。)」第三巻219ページ

 

 

 

「教育の機会を優先的に与えられるのは、むかしのように、縁者、「頭のよい者」、「マルクス主義を修得した者」ではない。最も優秀な労働者、つまり革命に対する態度、日常の労働、熱意と犠牲心によって、指導党のメンバーとしてのすぐれた資質を示した人々である。」第三巻252ページ。

 

 

 

「共産主義社会の達成は、労働が苦痛な必要であることをやめ、楽しい至上命令にかわる」第三巻292ページ

 

 

 

「われわれがはいろうとしている社会主義制度ないし社会主義建設の時期の特徴は、国家のために個人を犠牲にすることである。」第四巻174ページ

 

 

 

日本共産党の赤旗には、「正義」も「愛」のことばもなし

 

 

 

道徳を否定する日本共産党だから、その機関紙である赤旗にも、「正義」とか「真実」という語句は出てこない。あるのは、労働者階級の「利益」とか、国民の「利益」というように、「利益」の語句だけである。日本民主青年同盟が、青年に加盟を呼びかける時のことばは、「生きがいを社会進歩に」である。「正義を実現しよう」とか「理想を実現しよう」とは、決して、言わない。

 

 

 

ちなみに、日本共産党系の社会科学総合辞典では、「人間の尊厳」は、以下のように解説されている。

 

 

 

人間の尊厳

 

共同生活の中で諸欲求によって労働をおこなう、自己意識的な、理性的な、活動主体としての人間の人間たるゆえんの本質(すなわち人間性)の自覚にもとづいて、人間の尊厳の理念が歴史的に形成され、しだいに豊富になった。それは人間としての高い普遍的価値であり、日本国憲法、世界人権宣言などの思想的根底にある。ルネサンス期、とくにピコ・デラ・ミランドラ、ドイツ哲学のカントによって高くかかげられ、今日、科学的社会主義の自由と民主主義、平和、倫理思想に継承、発展させられている。

 

 

 

日本共産党は、人間を猿が進化したものに過ぎないと主張

 

 

 

日本共産党は、すべての価値観、善、愛を否定するニヒリズムだ。人間は尊いものだ。しかし、共産主義者は、人間は猿が進化した存在に過ぎないと言い切って、人間の価値を否定している。そんな理論を認めるわけにはいかない。さらに、共産主義者は、唯一の価値として、労働者連帯、プロレタリアヒューマニズムなるものを主張している。これは、日本共産党の独裁政権を正当化するものだ。愛や善、ヒューマニズムを信じよう。

 

 

 

以下は社会科学総合辞典の項目である。

 

 

 

ニヒリズム(虚無主義)

 

 

 

従来からつたえられてきたもの、現在あるものをすべて否定する思想や態度。一般に社会的矛盾が深まり、社会が行き詰った状況のもとであらわれ、過去・現在の価値あるものをも否定し、同時に、これにかわる新しい価値をもちえないところから生まれる。とくに今日では、資本主義の矛盾の深まりの中で、労働者階級を中心とする社会進歩の側にたてない知識人などの孤立感から生みだされる。このことばは、もとロシアの作家ツルゲーネフが小説『父と子』(1862年)で主人公バザーロフをニヒリストとよんだところから普及した。

 

 

 

共産主義者は、人間の意識は外界の反映に過ぎないと言い切る

 

 

 

共産主義者は、人間の意識は外界の反映であると言い切る。それは、反映論とも言われている。

 

 

 

以下は、共産主義者の、人間の意識に関する見解である。

 

 

 

「反映論」

 

認識とは客観的世界への意識への反映であると主張する学説であり、弁証法的唯物論の認識論である。模写説ともいう。反映は、無機的世界での物質の相互作用においてもみられる。自然界の発展において生命が誕生し、進化をとげるなかで、反映の形式もしだいに進化し、脳をもつ脊椎動物では知覚の能力が生じ、人間では、脳髄の所産としての意識が、能動的な反映としての認識が生まれる。すなわち人間において、まず感覚についていえば、たとえば外界の物体は、その反射する光が目に入って網膜にうつり、神経刺激に転嫁されて脳髄につたえられる。こうして感覚器官をとおして直接的な反映である感覚が得られ、さらに知覚が生ずる。これらの感覚・知覚をもとにして、抽象・概括などの働きがくわわることによって概念や理論がつくられる。客観的な諸現象のあいだになりたっている普遍的な連関としての本質はこうして反映される。すなわち認識は、一面的なあさい反映から、全面的なふかい反映へと発展する。人間の思考においては、その能動性を介して、反映がおこなわれる。

 

 

 

「意識」

 

感覚・思考・感情・意志などを人間の身体に特有な、反映のはたらきを総括して意識と言う。意識と物質との関係は哲学の根本問題であって、観念論が意識を本源的とみなすのに対し、唯物論は物質を本源的とみなす。唯物論によれば、意識は脳髄のある一定の状態ないし作用であり、物質的世界(実在)を反映しているものである。感覚・知覚・表象・概念などは、すべて実在の反映である。

 

 

 

 

 

「正直」とか「うそ」を「科学」する日本共産党

 

 

 

日本共産党系の学者が、日本共産党と関係の深い出版社から出版した『嘘の倫理』という書籍がある。読めばわかるが、共産主義者は、「嘘をつくのは良くないことだ」とは決して言わない。共産主義者は、道徳を否定しているからだ。第二次世界大戦後、小中学校から、道徳の授業が消えたのも、共産主義的な教職員の組合であった日教組のせいだ。『嘘の倫理』などの書籍にあるように、日本共産党は、現在の資本主義社会は、嘘をつかなければ生きていけない社会であると主張する。

 

 

 

『うその倫理学』 1997年 亀山 純生 大月書店

 

 

 

「嘘はなぜ悪いのか」の二重の論点

 

 

 

今見てきた社会倫理の「歴史的普遍性」という視点からすれば、過去のある歴史的社会の特殊な社会倫理において、「人間として嘘は悪い」という倫理があるからといって、それを超歴史的な人類の普遍倫理だと理解するなら、この倫理の形式と現実態を見誤ることになる。これは、私たちが日常的に倫理を考えたり、とくに日本文化の伝統を語るとき、ともすれば陥りやすいエアポケットだ。いわば、倫理の普遍的形式にだまされるわけである。

 

 

 

これまでみてきたような普遍的倫理の「歴史的普遍性」という観点からすると、特殊な社会倫理における現実態こそが「嘘がなぜ悪い」かを検討するメインの舞台である。というのも、ある倫理規範は、たとえ普遍的形式をもって表現され、またそれゆえ歴史的にどれほど伝統的ないし継続的であっても、問題の歴史的社会においてそれが存在しうる根拠がないなら、それはもはや社会倫理としては存在しえないからだ。忠君の倫理、男尊女卑の倫理などは、そうした典型例である。

 

 

 

したがって、倫理の「普遍性」とは、社会倫理が歴史的に変化していく過程での相対的な同一性、あるいは異なる社会倫理の共通性でしかない。この意味で「普遍的」倫理は「歴史的普遍性」をもつ。ただし、特殊な社会倫理は普遍的形式(表現)をもつことで倫理として機能しうるゆえに「歴史的普遍性」をもつのである。

 

 

 

このような倫理の「歴史的普遍性」の二つのポイントは、私たちが嘘はなぜ倫理的悪かを再検討する場合に不可欠な、二つの重要な論点を示してくれる。

 

 

 

第一は、嘘がなぜ悪いとされるかの歴史的根拠の検討である。現代社会において、どんな嘘がどんな意味で悪いとされるのか、あるいは誰にとって悪いとされるのか、など、その現代固有の形態を把握することである。そして、それが現代社会の構造とどう関連しているのかなど、社会的必然性を把握することである。

 

 

 

第二は、嘘がなぜ悪いのかについての普遍的根拠の検討である。先に検討した歴史的形態での「嘘が悪い」が、どのような論理ですべての人間に妥当する、少なくとも妥当しうるとして説明されるか、そして、すべての人間が受容しうるか、である。この論理が成立してはじめて、現代社会のすべての人間に拘束力をもつ倫理としての資格を得るのだ。さらには、異文化圏の倫理・異なる倫理観の人とも「嘘が悪い」という倫理を共有できる可能性をもつからだ。

 

 

 

嘘を必要とする現代社会

 

 

 

商品社会が要求する嘘

 

 

 

ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理をエートスとする資本主義の草創期ならば、たしかに嘘は商品社会形成の論理への背反だともいえよう。そこでは、ロビンソン・クルーソーの物語が描いているように、とくに中産階級の諸個人は、勤勉・誠実に振る舞い、まっとうな利潤の追求が各人の幸福達成と神の恩寵の兆しと信じて禁欲的に額に汗して働くのが基本的パターンだった。そして、シェークスピアの『ベニスの商人』が描く特権的貿易大商人のような、詐欺・裏切り・略奪・侵略など「尋常一様でない方法によって巨利・巨富を占めようとするあり方」は、反道徳的振る舞いとして否定されていた。

 

・・・(略)・・・

 

このような現代商品社会の論理のもとでは、嘘の是非もその効用性の観点からとらえられることになる。つまり、一方では先にみたように、商品社会の生命線である「信用」確保のために嘘の禁止が求められるが、他方では、それを犯さないかぎり嘘は容認され、場合によっては積極的に是認されることになる。このあたりの論理はすでにホッブズの議論が単純明快に示していたが、現代商品社会レベルにおいてもまったく同じだ。ホッブズではもっぱら個人レベルでの問題にしていたが、現代では企業が主体であることによって、ある意味では倫理性の視線すら希薄になって、嘘はいっそう大胆に闊歩しているとすらいえよう。

 

 

 

現代社会は、商品社会の論理ゆえに嘘を必然的に要求するのだ。

 

 

 

広告の嘘

 

 

 

なんといっても商品社会の論理が必要とする嘘の第一の典型は、広告の嘘であろう。現代商品社会はコマーシャルの時代であり、広告が企業活動にとって生命線である。広告は現代ウソ現象の一方の主役といっても過言ではないだろうが、そこには虚実入りまじり、消費者サイドからしばしば誇大広告、虚偽の表示、ウソの宣伝などと告発される事態が頻発している。

 

 

 

問題は、広告の嘘はかつてのガマの油売りのレベルではなく、圧倒的な情報量と巨大な組織力をもつ現代企業の消費者操作となっていることだ。シセラ・ボクが注目する嘘の威力という点では、大企業の嘘は、国家・官僚・行政機構の嘘とならんで双璧だ。これにくわえて、広告の嘘はどこまでも企業の利潤獲得の手段と化していることでその手口はいっそう複雑となり、問題性はいっそう深いのだ。

 

 

 

企業社会が必要とする嘘

 

 

 

現代社会が要求する嘘の第二は、第2章でみた組織の嘘の肥大化である。企業や組織が生理的にもつ嘘や秘密への傾向が、営利企業の目的・使命を貫く資本の自己増殖の論理によって、いっそう強固になっていることによる。粉飾決算、利潤隠し、企業秘密、製品開発や情報獲得をめぐるスパイ合戦もどきの欺きあい、汚職や非合法的活動の隠蔽・偽装など、例は枚挙にいとまがないが、その基本的構造と必然性は組織の嘘の生理として第2章で述べたのでここでは省略する。

 

 

 

第三はこれに関連して、企業に属する個人が必然的に嘘を強いられることである。これも第2章で組織の嘘のもう一面、組織人の宿命として述べたことだが、右と同じく資本の論理によって、さらにいっそう強固になっている。

 

 

 

くわえて日本の企業社会においては、企業が疑似共同体的性格を保持してきたことが、いっそう強力に企業人に嘘を強制する。会社のためには世間はもちろん、場合によっては家族や友人さえも欺くことを美徳とする―少なくともやむなしとする―傾向である。企業社会においては、正直モラル(「嘘が悪い」)はなによりもウチの世界への忠誠に求められるのであって、企業の外の世界における正直モラルはどうしても二次的になる。そしてそれは、伝統的な共同体倫理の形態で諸個人に意識されることによって、企業のための嘘はミウチをかばう嘘としてウェットに正当化される傾向がある。

 

 

 

さらに、官僚組織や他の一般の職場でもそうだが、会社・企業はそこに属する諸個人にとって生活手段(賃金)獲得の場であることによって、この嘘への強制はほとんど桎梏にちかい束縛となる。個人的信条はどうであれ、そこに属するかぎり、企業・会社の必要とする嘘の実行は絶対義務の様相を帯びるのだ。しばしば、組織・企業の虚偽や嘘にたいする内部告発が匿名によってなされるのはこのためだ。

 

 

 

第四に、以上のように企業社会が嘘を必然的に要求することは、間接的に現代社会一般に嘘を、少なくとも必要悪として容認する風潮を生む。このことは次節とも関連するが、ここでは商品社会における諸個人の行為の一方の特徴が戦略的行為とならざるをえない点にふれておくことにしたい。

 

 

 

 

 

・・・実は嘘であってもそれを自己の「真実」とみなされることを承認すればよいのである。問題は、そのような自他の欺瞞が恒常的に本来人間に耐えうるかどうかだが、そこに公理2であげた共同存在が必然的に関連してくる。・・・。共同性が人間の本質と位置づけられることで、現に共同のテーブルについているか否かを問わず、価値観・道徳の相違を超えてすべての人間がこれを不可避的に認め、共有しうる理論的可能性を保証した。嘘の倫理的悪さの普遍的根拠が人間の本質に関係づけられるということは、いってみれば、文化・価値観・道徳の異なるすべての人びとに、それぞれの立場を足場にしつつも自己の特殊性を超えて共同の普遍的理由を共有しようとの呼びかけでもある。

 

 

 

先に述べた疎外概念によれば、現実の社会や人間のあり方における矛盾や否定的な状態は、人間の本来のあり方(人間の本質・人間性)の欠如・喪失という視点から理解された。それゆえに現実社会とそこでの人間に対する批判と問題解決への行動が、本来性の回復という言い方でクリアな規範性と共感性をもちえた。だが問題は、かつての疎外の理解のように、そこで前提されている本来的人間が、文字通り過去の始原の人間とか、はじめに完全な人間ありきなどとして理解されると、実態的な人間の本質を前提しそれを絶対化してしまうという難点をもつことだ。

 

 

 

・・・だからこの人間の本質は、なによりも現実の諸個人の本質的受苦をとおして、その基本構造とその解決方向を照らすものとして発見されることになる。それゆえに、現実の歴史的社会の矛盾を介しつつ、かつ他の歴史的社会の問題解決の理念ともリンクする可能性をもつものとして意味があるといえる。

 

 

 

・・・第3の公理は、おわかりのように、弱者は無条件に対等な共同存在の一員であるべきだという点から出発している。この点も、たとえば欧米の生命倫理学のように、弱者(人間)が社会でどれほど有用かとか、そう認めることの社会的効用性いかんなどと、あるいは自然科学的にみて人間の本質に適合しているかどうか、人間の平等とはなにかなどと論証によって確定していく問題でないと考える。そうではなくロールズの『正義論』が不平等の格差是正原理を原初契約として無条件に仮定したように、端的に無条件に承認すべきである。その意義うんぬんはまずこれを承認したうえで具体化すべき問題だと思う。なぜなら、そうしないことには、つまり弱者への配慮義務を最初に前提できないで、現実の人間疎外の問題など解決できるはずがないからだ。そして、嘘=欺瞞によって人間としての可能性をより奪われ嘆き苦しんでいる人がいたら、それがたとえ幼い子どもやか弱き老人であったとしたら、やはり理屈ぬきに胸が痛むからだ。

 

 

 

・・・

 

 

 

この疎外された社会においては、私たちは嘘をつかずに生きることはできない。だが、そうであっても、せめてこの社会、この地球上の他者の悲しみと苦痛の声を聞き取れるほどには、人間と社会に関する共知と他の人間にたいする共苦の回路だけは確保しておきたいものだ。

 

 

 

共産主義は、宗教を否定

 

 

 

共産主義は、宗教を否定している。悪いものとして描いている。共産主義革命に国民を動員したいが、宗教が、日本共産党にとっては生ぬるい活動、ボランティア活動のようなものを、マルクスが批判したところの空想的社会主義を訴えるので、宗教は人民のアヘンであると批判したのである。日本共産党にとって、国民を革命の部隊に加えたいが、宗教団体が過激な行動を控えるようにと訴えるので、宗教団体は妨害勢力なのである。

 

 ちなみに、「宗教は人民のアヘンである。」とは、明らかに宗教を否定した、宗教に対して攻撃的なことばである。宗教を、アヘンという、反社会的で犯罪的で否定的な語句にたとえるところが、かなり、宗教に対して攻撃的である。マルクスが、宗教に対して理解があったのであれば、「宗教は人民の鎮痛剤である。」などと言えばいい。

 

 日本共産党員は、いい人たちの集まりなのであろうか? 日本共産党員は信用して良いのだろうか? 正直であること、まじめに生きることを、徳や価値観として認めずに、うそをついてはいけないという命題は、どのように根拠づけられるかとまじめに『うその倫理』という書籍などで、まじめに論じる人たちである。若きマルクスの著作にも、「倹約・節約と言う徳、価値観は、資本家が労働者を支配するためにねつぞうした価値観である」と、はっきり書いてある。